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風俗ソープ街とは?

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東京・池袋、渋谷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/08/27 02:32 UTC 版)


池袋駅西口の繁華街


池袋の概要

池袋は、新宿、渋谷と並ぶ山の手3大副都心の一つ。
駅を中心に巨大な百貨店や専門店が集中し、飲食店などがひしめく。
繁華街は東西に広がり、北には大規模な歓楽街がある。
1日に約100万人の集客人員がある。この街の事を若者を中心に「ブクロ」と略して呼称されることもある。
東口方面には西武百貨店・サンシャイン60・女性向けオタクストリート乙女ロード・
豊島区役所等があり、西口方面には東武百貨店・東京芸術劇場等がある。

特に西武池袋線・東武東上線・JR埼京線・湘南新宿ライン等を利用する東京都西部、
埼玉県南・西部の住民が多い。東京都の調査では、23区在住者の来街者が最も多いのが池袋である。
中心部から少し離れると、立教大学、
重要文化財に指定されているフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館、
多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園などの緑や文化財も多く、池袋演芸場などの寄席や小劇場もある。
駅や街の至る所にある「いけふくろう」像は、
「渋谷のハチ公に対して、池袋にも待ち合わせのメッカを」ということで、
"いけぶくろ"と"フクロウ"を掛け合わせて考え出されたものである。
特に、東口のものはJR発足時に設置されたものである。

池袋の歴史

現在の池袋駅より少し北西に離れた場所、
今で言う豊島区池袋、豊島区池袋本町の辺りにかつて存在した「池袋村」が発祥とされている。
1889年の町村制施行で、巣鴨村の大字となる。

しかし、池袋の地は古くは栄えているとは言いがたい農村地帯であった。
ここが栄えるきっかけとなったのは、鉄道の開業である。
上野駅?前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、
1885年に官営鉄道(新橋駅?横浜駅)との接続を目的に、
現在赤羽線・山手線(埼京線)となっている赤羽駅?品川駅間の路線を開業させた。
だが、この時には池袋の地に駅は設けられなかった。

その後、1903年に田端駅への支線を建設することになった。
この時、当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形の問題で池袋を分岐点にすることになり、
池袋駅の開設に至ったのである。
だが、駅の外に畑が広がっているという状況はなかなか変わらなかった。

大正から昭和にかけ、東上鉄道(今の東武東上本線)や
武蔵野鉄道(今の西武池袋線)なども池袋へ乗り入れるが、
これらはどちらも当初繁華街とはいえなかった池袋は起点とせず、
当時の繁華街であった神田・巣鴨(市電が1912年には乗り入れていた)への乗り入れを前提としていた。
その過程において池袋は仮のターミナル駅として開設されたが、
その後の事情でどちらも都心への延伸を断念し、結果として池袋起点となったものであった。
この頃は、巣鴨のほかに、白木屋があり王子電気軌道(今の都電荒川線、1911年に開業)と
山手線が交差していた大塚駅辺りが繁華街であって、
池袋は師範学校や立教大学など、学校が置かれたことから文教地区となっていった。

1933年に白木屋と京浜急行電鉄が共同で設立した京浜百貨店が1930年代に
菊屋デパートの名で池袋駅に開店。そして東京市電(1943年に東京都電となる)が
1939年に池袋駅前に乗り入れ、この頃から交通の結節点として、賑わいを見せるようになる。
菊屋は1940年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)に買収され、武蔵野食糧を開設。
武蔵野デパートを経て1949年に西武百貨店と改称した。

また東武百貨店が1962年に本店を開店して
1964年に東横百貨店池袋店を買収し、
1958年に開店した東京丸物池袋店は1968年に西武百貨店に買収されパルコになった。

現在池袋と名の付く地区の大半は、一時期西巣鴨町に属していた。
西巣鴨橋という橋が東池袋二丁目に現存する。
サンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に立てられたものである。 安心の池袋の風俗求人ビガーネット

渋谷駅前のスクランブル交差点付近

渋谷の歴史

吾妻鏡などの歴史書に、平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、
この付近を本拠としていた武将渋谷氏の活動の記録が残されており、
その一族に河内源氏の源義朝の近従だった渋谷金王丸がいる。
江戸時代には大山街道(現在の国道246号にほぼ一致)沿いの集落として栄えた。
明治時代になると1885年(明治17年)に山手線が開通し、
その都心よりに東京市電(1911年)が、
西側に玉川電鉄(現・東急田園都市線、1907年)が接続したことから、
交通の結節点として発展していくこととなった。
以後も1927年(昭和2年)に東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)東横線、
1933年(昭和8年)に帝都電鉄(現、京王電鉄井の頭線)、
1938年(昭和13年)に東京高速鉄道(現、東京地下鉄銀座線)と次々に新線が開通し、
ますますその地位を高めていく事になる。

その中でも注目すべき事は、
五島慶太の率いる東京横浜電鉄が小林一三率いる大阪の阪急の梅田駅の手法に倣って、
1934年(昭和9年)にターミナルとなる渋谷駅に東横百貨店
(現・東急百貨店東横店東館)を設けたことで、
関東では東武浅草駅の松屋(1931年)に続いて2番目、
全国でも3番目となるターミナルデパートであった。
それまで鉄道で渋谷に来た後に銀座・上野方面へ市電やバスで
向かっていた客が渋谷で買い物をするようになり、成功を収めた。

1938年(昭和13年)、前山久吉の所有していた三越株の譲渡の話が持ち上がった。
そこで五島は東横百貨店を三越と合併させ、東横を三越の渋谷支店にしようと考え、
10万株を購入した。
しかし、三井財閥の中枢企業である三越の乗っ取りを阻止するために三井銀行は東横への融資を停止。
三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も慶應閥の牙城だった三越の
買収に手を貸せば非難が向くと判断し、融資を停止した。
五島は三井・三菱を相手に戦いを挑まねばならなくなった。
もちろん資金繰りは悪化。
慶應閥に大いに顔が利く小林一三に助力を依頼したが、
小林には「渋谷のような片田舎の百貨店がそんなことをするのは、
蛙が蛇を飲み込むより至難」と諭された、と言われている。

戦後になると渋谷は1954年(昭和29年)に東急会館(旧・玉電ビル、現・東急百貨店東横店西館)、
1956年(昭和31年)に東急文化会館が設けられ、「東急の街」として発展していく事になった。

だが、渋谷が現在の地位を手にすることになるのは昭和40年代以降であり、
きっかけはセゾン系列の西武百貨店が1968年(昭和43年)に渋谷へ進出した事によるものである。
以後、東急と西武による開発競争が始まり、西武系の「パルコ」・「ロフト」、
東急系の「ファッションコミュニティー109(現SHIBUYA 109)」・「ONE-OH-NINE」「東急ハンズ」・
「Bunkamura」などが次々に完成。
西武は通りの名称をスペイン坂、渋谷公園通りなどに変え、
再開発も同時に進めることで現在の街並みが形作られていった。

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